集まったエピソード
紙屋町、八丁堀にまつわる記憶
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#八丁堀と予備校
1974年の春、大学受験に失敗した私は、予備校に。その当時、予備校と言えば、八丁堀のYMCA、小町の英数学館の2ヶ所しかなく、結局YMCAに入学しました。予備校に通っているのを言いたくない、予備校生は、YMCAのことを八丁堀大学と言ってました。結局、八丁堀大学には3年通いましたが、最終的に目的の大学に入学でき、今では懐かしい3年間でした。
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#引越とクレドのイルミ
3歳の息子をつれて、東京から主人の故郷広島に引っ越し、何も知らない土地で寂しいおもいをし、唯一、クレドのイルミネーションをみると、東京を思い出し、癒されておりました!
今では、広島が大好き!穏やかな気持になれます! -
#紙屋町の発展
Bancart おしゃれ!
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#親とみたそごうの大時計
そごうの人形が出てくるからくり時計が好きでした。4歳くらいだったでしょうか、いつ人形が出てきて音楽が鳴るのかわからないけれど、とにかく人形が見たい!と親にお願いして何度も見に行きました。小さな子を連れて買い物していて時間になったら時計のところまで連れて行かないといけない親の大変さがわかるようになるのはずっと後のことになるのでした。
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#米軍兵士とバーで
その年の大晦日、たまたま出会った20代の米軍兵士とバーで一緒に飲んでいた時、「悪いイメージがあったが、日本に来てそのイメージが間違っていた。原爆を落としたこと、あんな酷いことをしてしまって申し訳ない」と涙を流しながら謝ってきたということがあった。
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#初めての映画は朝日会館
映画を初めて見たのは朝日会館でした。男子なのに白雪姫を見せられ、恥ずかしくて友達には言えませんでした。
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#旧市民球場の歓声
遠くからでも聞こえる歓声と夜空を明るく照らす灯り、ワクワクしながら自転車で通った市民球場が今でも忘れられません。
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#旧市民球場の終焉
帰省していた広島の実家で、広島市民球場での最終戦(カープVSヤクルト)をテレビ観戦していました。ここでの最後の試合だと思うと、居ても立っても居られなくなり、「今から市民球場に連れてって!」と父に言いました。父が車をぶっ飛ばして連れて行ってくれました。渋滞していたので「ここで降りて走れ!」と言われたのが商工会議所の前あたりです。大人になってからの、父との大切な思い出のひとつです。
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#旧市民球場跡が空き地に
球場跡地の大きな空地は、殺風景ではあったけれどある種のこの街を象徴する精神性が潜在する空地であり、近くを通る度少し立ち止まって眺めていたのを思い出しました。
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#祖母とバスセンター
月に何度か祖母の通院の関係で、祖母と2人で市内まで来ていました。広島の北部に住んでいたので、高速バスでバスセンターまで移動して、そごうや平和公園あたりに行ったのを覚えています。紀伊国屋で本を選んだり、平和公園でお弁当を食べたり、原爆資料館に連れて行ってもらったりと、紙屋町周辺はよく歩いた気がします。今でも祖母と「一緒にここによく行ったよね」と話すことがあり、私にとって大切な思い出です。
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#地下街のストリートピアノ
幸せに満ちた地広島に移住していた最初の日、地下街でストリートピアノを聴いていました。ごつごつと、でも豊かに何度も何度も挑むそのパッセージが染み入りました。
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#広島ビギナー時代の支え
広島に引っ越して来たばかりの頃、最初にアルバイトしていたのが紙屋町のパスタとケーキのお店でした。脱サラして勢いで引っ越したので右も左もわからないし、やりたい事があるので長くは続けられないかもしれない、など正直に全部話したら「店には個性のある人がスタッフをするのがいいから採用」とすぐ採用してくれました。週2回は某美術館でインターンをして、それ以外の日は6時半から午後3時半までモーニングとランチタイムのスタッフでした。毎朝届いたホールケーキをカットする作業は慣れるまで苦労しました。残って割引になったケーキを買ってたあの時が1番ケーキを食べていました。お店はもうなくなってしまったのですが通るたびに広島ビギナー時代を支えてくれたこのお店を思い出します。
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#広電降りてウキウキ待ち合わせ
高校、大学時代、友達と遊ぶときは必ず市電の紙屋町西で降りていました。そこから本通りの方へウキウキしながら歩いて待ち合わせ場所に歩いて行っていたことを覚えています。
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#バンド友達と立町で
高校生の頃、立町のYAMAHAにあるポピュラーミュージックスクールに通っていました。同期の人たちとバンドを組み、大会に出たり、ライブ活動をしたりして、熱量がすごかった場所です!
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#通学中に聞く球場の歓声
高校生の時、いつも広島市民球場(現・ゲートパーク)の脇や原爆ドームの前を通って、通学していました。特に部活の帰り道、元安橋あたりから見える球場の照明と、聞こえてくるカープの応援や歓声、どよめきを自転車に乗りながら感じていました。音だけなので、「どうなったの?チャンス?ピンチ?」など一喜一憂しながら、早く帰ろうと自転車をこいでいました。
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#デートはいつもの喫茶店
今から40年前、結婚前の主人とのデートの待ち合わせは いつも同じ喫茶店だった。
地下にある 少しタバコ臭い そのお店は現在も営業している。
階段を降りてくる足音、ドアを開ける音、当時は音がするたびにドキドキしながら振り返ったものだ。
…あのトキメキは今いずこ… -
#眼科でビックリ
今年の夏に、眼科に行きました。眼科の診察の終わり、聞き間違えかもしれませんが、先生に「Have a nice day」と言われてビックリしました。とても、素敵な先生でした。
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#噴水とお子様ランチ
三越の向かい側、胡町電停前に大きな噴水がありました。デパートでおもちゃを買ってもらって、そのままデパートの上の階でお子様ランチを食べて、バスを待っている間噴水を眺めてる。これがいつものお出かけ定番でした。
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#初めてのデパートは家族と
三輪車のトラックで島根県のど田舎から広島に引越してきて、初めてデパートに家族でお出かけしました。確か、福屋デパートだったと思います。余りの綺麗さに家族4人初めてのエスカレーターに靴を脱いで手に持ち裸足で乗った事を思い出します。純粋でしたねーー。
お昼は、勿論大食堂。旗の立った、お子様ランチ食べました。美味しかったなぁー。旗は勿論持って帰って宝箱に。(笑) -
#屋上遊園地とお子様ランチ
子どもの頃、デパートの屋上にある遊園地で遊びました。車が動くような遊具が印象に残っています。
遊んだあとは下の階にあるレストランで、旗が立ったお子様ランチを食べたのをよく覚えています。 -
#思い出は映画館と共に
子どもの頃は父と「ゴジラ」、中学時代は彼女と「ある愛の詩」、高校時代は悪友と「仁義なき戦い」。八丁堀交差点を中心に「広島東宝」や「朝日会館」、「広島東映」など数多くの映画館があった頃、その場所とともに映画は人生の1ページを彩ってくれました。
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#カーディガンの特別な思い出
子供の頃、そごうで母にカーディガンを買ってもらいました。キラキラしたお店で、薄くて繊細な紙で、丁寧に包んでもらって。その時のウキウキした気持ちや、カーディガンのデザイン、手触りまで覚えています。紙屋町の特別な思い出です。
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#市電沿いの不思議な空間
市街に住んでいた私は広島市内の思い出というと、幼い頃に市電沿いにある池なのか公園なのかよくわからない小さな空間を横目に見ながら近くのドーナツ屋に連れていってもらったことをよく覚えており、不思議さと嬉しさが重なった風景が記憶に残っています。
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#合格発表後、母と紙屋町交差点で
志望校にて自分の受験番号が載っていたことを確認した帰り道、広島バスセンターで降車。「第一志望に合格したらギターを買ってあげるけえね」と言ってくれてた母親と今はなき紙屋町交差点の横断歩道で待ち合わせ。私を見つけると「おめでとう」と目に涙を浮かべながら歩道を渡ってくる母親。母親と同じくらいの年齢になった今、その表情を思い出すたびにぐっと込み上げるものがあります。
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#夕焼けと服屋前の軍人さん
私の実家は1966~2006年頃まで八丁堀交差点の天満屋(現在のヤマダデンキ LABI広島)の向かいにありました。私の部屋の窓から福屋が見えたのですが、福屋の前にはいつも片足の傷痍軍人?の方が物乞いをされていました。友人の話によると「あの軍人さんは夕方になると両足で元気に帰って行くんじゃ」と言ってたので、夕方に軍人さんの後をつけて行ったことがありました。軍人さんは松葉杖をついた片足のまま原爆スラムへ消えて行きました。「疑って悪かったな…」と思いながら見上げた空が、夕焼けで真っ赤に染まっていたのを憶えています。
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#今は無き交通監視塔から
紙屋町交差点にまだ県警の交通監視塔があったころの話です。信号が変わりかけの横断歩道に駆け込んで渡っていると監視塔の女性警察官から「そこの縞模様のシャツの男性、信号、赤に変わってますよ」と指摘されて恥ずかしい思いをしたのが忘れられません。今では監視塔も広電の信号操車塔も、横断歩道すらなくなってしまいました。
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#紙屋町で迷子に
自分自身は覚えてないのですが、母とそごうに行った時、当時まだ1歳で歩ける程度の私は迷子になったそうです。
母は必死になって探し回り、最後警察に行ったところ、「栗毛(地毛が茶色いんです)の女の子ですか?紙屋町の交差点の真ん中でニコニコしながら立ってたらしいですよ。」と言われたそうです。
1人になっても泣きもせず好奇心旺盛に歩き回る私の性格は今の自分を考えても納得です(笑)
この話は母から何度も聞かされてたので、紙屋町の交差点を歩く度にふふっと思ってました。 -
#初運転は電車通
社会人一年目、免許証とりたてで先輩のミラージュを運転して電車通を銀山町から西に進行してました。片側三車線だったと思います。1番左をおそるおそる走行し、タクシーやバスに変な目で見られてました。緊張して手に汗握る(汗) 長束の寮に帰って飲んだビールがとっても美味しかったです。40年前の出来事。今でも立町あたりを通ると思い出します。
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#コロナ禍の静かな平和記念公園
就職活動の最終面接で初めて訪れた広島。当時はコロナの緊急事態宣言真っ只中で、滞在していた紙屋町は、都市の様相に対してあまりに静かでした。
そんな中ひとり歩いた平和記念公園では、自身の人生の節目となった時期と重なり、息を大きく吸い込み、ぐっと背筋を伸ばしたことを覚えています。今は再び観光客で賑わう空間も、ぽっかりと生まれたあの空気が、いつまでも特別な思い出です。 -
#デパートはオシャレをして
小学生の頃、そごうの8階だったか、昭和感満載のファミリーレストランがあった記憶があります。
今は亡くなった祖母と家族みんなでお昼を食べに行っていたことを今も時々、思い出します。
あの頃はデパートはオシャレをして行く特別な場所でした。 -
#顔のオブジェに立ち止まる
小学生の頃、よく母の買い物に付き合ってそごうや紙屋町へ出かけていました。
そごうで洋服を見て、それから歩いてYAMAHAへ行き、八丁堀方面へ。その時、いつも通る交差点にある顔のオブジェが気になって気になって。(土井クリニックの)いつも素通りしようとする母と、立ち止まってしまう私。「なんの作品?なんのためにあるの?なにを意味しているの?どうしてここに?」いろんなクエッションが浮かぶのですが、母から明確な返答はなく、だからいつも立ち止まってじっと見てました。今思うと、街の中に溶け込んでいるアートの存在、子どもの記憶に刻まれていたんだなあと、今回の企画で思い出すことができました。(そして今は、私が素通りして、娘が立ち止まっています笑) -
#青空の下、家族と屋上プール
小学生の頃、三越の屋上にあった屋外プールに、母に姉と一緒によく連れて行ってもらっていました。デパートの屋上で泳ぐというプチセレブ体験は、輝く青空と共にステキな思い出です。
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#家族でむさしとアンデルセン
親と広電で市内に出掛けると、昼は「むさし」でうどんとおむすび(その頃は店頭でうどんを手打ちしてた!)、おやつにアンデルセンの2階でクレープのイチゴソース掛けを食べるがコースでした。今思えば、もの凄く贅沢w
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#もうひとつの相生通り
昔の相生通りは相生橋から三篠橋に向かった川渕エリア(原爆スラム)のことをさしていた。
このエリアでは火事が頻発していた。祖父の自転車の後ろに乗ってその様子を見に行った記憶がある。
大田洋子さんの「夕凪の町と人と」いう小説に相生通りのことが書いてあり、昔の相生通りのことがわかる。 -
#相生通りは出会う場所
相生通りは、奥さんと初めて会った場所。今思えば、そこにはいろんな”出会い”があった。だからこそワクワクする。車ではなく人が通る道になれば、きっとまちが生き生きとして、もっとたくさんの”出会い”が生まれるだろう。そんな”セレンディピティが溢れるまち”であり続けてほしい。
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#社会人デビューとケーキ
卒業後就職した会社が紙屋町にありました。美味しいケーキ屋さんたくさんあり驚きました。“お給料日はケーキ“が自然に友達との決まり事になりました。紙屋町八丁堀をぶらぶらする事も楽しく社会人デビューの思い出の街です。
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#祖父と一緒に屋上遊園地
多分、幼稚園か小学校低学年の頃だったと思います。私の祖父は菊の栽培が趣味で菊の展覧会を見に行くのが目的でしたが、私はその後に連れって行ってもらえる天満屋(現在のヤマダ電機)屋上の遊園地が楽しみでした。観覧車や色々な乗り物、レストランがありその時代では子供たち誰もが行きたいと思ったはずです。
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#学生生活とハンズ通い
大学で建築の勉強をしていた私は、在学中に課題で使用する画材や道具を買うためにハンズ(当時は東急ハンズ)によく足を運びました。当時は地方都市にあまり店舗がなく、「広島にハンズがあること」を何となく誇らしく思っていました。
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#バイト帰りにバイオリンの音色
大学生になって初めてバイトをしたのが新天地近くで、とても緊張して初日から盛大なミスをした事があります。でも流川通りを通って帰る途中にいつもバイオリンを弾いている店があり何気なく通り過ぎた時、自分が好きな歌手の曲を弾いていて、少し心があったかくなるような、救われる様なそんな想いをした覚えがあります。
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#相生通りで感じた広島らしさ
大人になってからの旅行で初めて広島に来たとき、広島らしいまちを感じることができた場所が相生通りだった。それはなぜか。たぶん、高いビルに囲まれたまちのド真ん中を路面電車がわんさか走っていたから。路面電車と線路が誰にも邪魔されずにほぼ一直線にキレイに走っている姿と、それを囲むように立ち並ぶ沿道の都心らしい建物の姿のセットに、自分の持っていた”広島らしさ”のまちのイメージがスッとハマった。
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#初デートで観た映画の記憶
旦那と付き合ってすぐの頃、広島一番の繁華街にあった朝日会館に映画を観に行きました。大きなスクリーンに胸が高鳴ったことを覚えています。今では紙屋町・八丁堀に行くこともめっきり減りましたが、新しいビルができると知って楽しみです。
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#街頭募金で外国人とお話し
中学3年の時、電車通り沿いのそごう入口前で、同級生と街頭募金をしました。外国人が話しかけてきて、ヒロシマベン(広島弁)としか聞こえず焦りましたが、どうもヒロシマバンク(広島銀行)の場所を尋ねていたようで、あとで友達と爆笑しました。
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#友達とショッピングの思い出
中学生の頃、友達と古着を買いに行って、途中で怖いお兄さんに喝上げされて買い物できなかった思い出があります。
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#映画館と広電が広島らしさ
中高生の頃、今回の再開発の対象地にあった映画館「朝日会館」でタイタニックなど、今振り返ると名画と呼ばれる映画たちを観ました。路面電車が走っていることもあり、相生通りは広島市内のthe中心部というイメージです。今後もオフィスと商業がまじりあう、コンパクトな広島市内らしい体験ができるストリートであってほしいと思います。
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#職業訓練校のお昼は友達とランチ
転職するために通っていた職業訓練校。お互い協力し合いながら課題をこなす毎日でした。節約するため、ランチはいつも近所の激安なお店へ。当時のクラスメートたちとは10年以上、細く長く交流が続いています。
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#ひろしまへいく
島から船に乗って「ひろしまへいく」ことは、昭和50年代の島のこどもにとってそれはそれは特別なことだった。
インターネットもスマホもない時代。
フェリーで1時間。宇品から電車に乗って紙屋町まで30分。油の滲みたチンチン電車の床の匂いを思い出す。
紙屋町そごう。
デパートのキラキラは田舎の子どもにとって眩しい都会で、ドキドキ&ワクワクする時間だった。
今でも、江田島から市内へ行くことを「ひろしまへ行く」と言う。
「市内へ行く」もたいがい不思議な言い方だけど\(//∇//)\ -
#桜を眺めながら通勤
東京から広島にUターンし、堺町に住み、勤務地の紙屋町へ自転車や徒歩で通勤でした。紙屋町?市民球場?原爆ドーム~相生橋を渡り、桜の木々や川を眺めながら、東京に憧れたけど、広島って美しいな、いいなと思えるようになりました。
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#バイト帰り、ギャラリーで
当時八丁堀にある喫茶店でバイトしていました。毎回失敗して注意されてばかりでしたが、ある帰りの日になんとなしに行ったギャラリーで素敵な作家さんに出会った思い出があります。
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#生まれて初めて映画を観た日
八丁堀の映画館で映画を観るのが楽しみでした。 1961年に観た「モスラ」が生まれて初めて観た映画でした。そのリアルさと巨大感そして色彩の美しさに魅了されてしまいました。その後「ゴジラ・シリーズ」を親と一緒に見に行きましたが、その頃は2作同時上映が当たり前だったので、一緒に観た「若大将シリーズ」も印象に残っています。
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#美味しいランチとショッピング
父がそごうに勤めていた関係もあり、両親と沢山そごうに行きました。特に深く覚えているのは、小学生の頃に両親とAfternoon tea room(現在のネイバリーブリューイングの建物)のランチに行った時のことです。とてもランチが美味しかったので何故かよく覚えています。90年代?00年代はあの周辺には沢山そごうの別館があったので、ビームスやビームスボーイのお店にもよく足を運んでいました。
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#屋上遊園地とクリスマスの楽しみ
保育園、小学低学年の頃、そごうの屋上の遊園地で遊んだり、クリスマスにはケンタッキーを食べたり、エディオン(当時第一産業)で最新の家電に触れるのがとても楽しかったです。
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#祖母が買ってくれたカーディガン
母が妹を出産のため入院。父方の祖母がヘルプで家に滞在してました。年に2回くらいしか会わずあまり懐いてなかったのですが、ある日そごうに連れて行ってくれて可愛いキツネ柄のカーディガンを買ってくれました。お下がりしか着たことがなかった私はすごく嬉しいような、高価だったので申し訳ないような気持ちになりました。今でもあの時の気持ちは忘れません。
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#広電のワクワクと屋上遊園地
幼い頃、両親とデパートの屋上遊園地でたくさん遊んで、レストランで食事をした事を思い出します。舟入に住んでいて、電車で向かう途中もワクワクしていたあたたかい思い出です。
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#幼少期の楽しみはデパート
幼少の頃。福屋の大食堂で、ソフトクリームとお子様ランチを食べるのが最大の楽しみでした。 小学生になると、やはり福屋の屋上の遊園地とゲームコーナーで遊ぶのが楽しみでした。とにかく福屋が遊び場でしたね。